大学案内

大学と前身校

 本学園の変化に富んだ110年の歩みを綴ってきましたが、内、埼玉工業大学としての歴史は37年弱で、約その3分の1を占めることになります。世に少なからぬ大学が「〇〇大学◇◇史』を謳って、100年以上の歴史を描いておりますが、大学制度史的に我が国で「100年」以上の歴史を有する大学は、実は旧制帝国大学(4校、東京・京都・東北・九州)だけなのです。何故なら、明治の元勲たちは、大学(University)は複数学部を擁する帝国大学でなければならない、という堅い信念を持っていたからでした。私立の大学設置を国が認めるようになったのは、1919年(大正8)になります。その年に大学令(勅令)が制定され、翌年の1920年(大正9)に、慶應、早稲田、そして明治、法政、中央、日大、国学院、同志社が大学と認められました。

 「大学」は、「教師」と「学生」の自治的共同体を語源・起源(Universitas)とするということに拘れば、その実体さえ備えていれば「大学」と名乗っても構わない訳で、何も聖なる教会権威や俗なる政治権力が「勅許」するとか、「認可」する対象ではないとも言えます。慶應義塾は1890年(明治23)に「大学部」の名乗りを上げました。しかし、歴史家たちはそれをそのまま大学として認めて来たわけではありませんでした。日本には、帝国大学と名称黙認の「私立大学(College)」というダブルスタンダードの時期がありました。その「黙認」が始まったのが1903年(明治36)の専門学校令制定であり、奇しくも本学のルーツ・東京商工学校が生まれた年なのです。つまり、考え方によっては上記の私学などの多くが、名実を備えた大学(University)として公認された時から数えれば、2020年以降が「大学100年」ということになります。しかし、少なからぬ私立大学が既に「100年」以上の歴史を描いているのは、その前身校の誕生から数えているからです。

 ところで、1945年(昭和20)8月、「大学」として「玉音放送」を聴いたのは、何校位だったでしょうか。僅か48校(他に「外地」に5校)に過ぎず、内「私立大学」は27校だけでした。その中に、仏教系大学が6校あり、本学園前理事長・松川|文豪氏が学んだ大正大学の入学定員は当時50名でした。大多数の国民にとって「大学」は遠い存在で、同一年齢層の2%弱が入学する「狭き門」でした。

 本学が、1962年開設の「聖橋工業高等専門学校」の廃止を1974年に決めて、埼玉工業大学を設立したのは、1976年(昭和51)4月になります。戦後の日本で、「大学・高等教育計画」と呼べるものの最初は戦後改革期の「新制大学」設置であり、その次は中教審「46答申」(1971年)に始まります。それは「高等教育懇談会」の設置(1972年)に引き継がれて具体化されました。そこでは、私学への経常費助成とセットで「高等教育」の多様化・柔軟化が模索され(「専修学校」等)、「大学」については1976年度から新規増設抑制措置が取られました(因みに1975年度の大学数は420校)。つまり本学は、国の「大学・高等教育計画」の潮目が変わろうとするまさにその時に設立されたのです。国の政策・計画と対陣しながら、滑り込んだとも言える「英断」でもありました。それだけに苦労も多くありましたが、「大学・高等教育」機関の大都市集中への批判が本学の設立には追い風になった面もありました。この経過は何れ詳しく語られることでしょう。

中猿楽町校舎

写真1:中猿楽町校舎(1914年、順天中学校に)

 

聖橋工業高等専門学校時代

写真2:聖橋工業高等専門学校時代

 

桜ケ丘女子高等学校時代

写真3:桜ケ丘女子高等学校時代

 

開学年度(昭和51年)の大学

写真4:開学年度(昭和51年)の大学

 

埼玉工業大学深谷高等学校時代

写真5:埼玉工業大学深谷高等学校時代

 



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